No.9, p.1 2001年7月


院内講演会:英国セントオズワルドホスピスのスタッフをお迎えして
平成12(2000)年11月20日夜 並木ひろば

アンジェラ・エグデルさん(写真左)
 患者サービスマネジャー
デボラ・ヘロンさん(写真中央)
 人材開発部長
セントオズワルドホスピス(英国ニューカッスル市)

座長:横山 幸生
 かとう内科並木通り病院 ソーシャルワーカー
通訳:小笠原ヒロ子


講演1
疼痛および症状コントロールにおける看護婦の役割

Angela Egdell(アンジェラ・エグデル)
英国セントオズワルドホスピス,患者サービスマネジャ


 今日のテーマは、「疼痛および症状コントロールにおける看護婦の役割」ですが、まず、デンマークの有名な哲学者、セーレン・キルケゴールの言葉から始めたいと思います。
 「あなたが誰かを助けたいと本当に思ったら、まずその人がどこにいるかを探し出さなければならない。それがケアの秘訣である。見つけられなくても別の人を助けられると考えることは錯覚にすぎない。人を助けるということには、その人以上に理解することが伴うが、まずは、その人が何をわかっているかを理解しなければならない」(1859年)

(注:キルケゴール〔1813〜55年〕は、魂の絶望を見すえて『死に至る病』などを著わした。「実存」という概念を思索の基軸にすえた哲学者として死後50年以上経ってから再発見され、第2次大戦直後のフランスで展開される実存主義の先駆者とされた。20世紀を代表する哲学書、ハイデガーの『存在と時間』にも影響を与えたとされる。参考書として白取春彦著『この一冊で「哲学」がわかる』三笠文庫など)

看護の根本的役割
 緩和ケアで働くようになって何年か経ち、私はこの言葉が、看護の役割について重要な、ある特質を伝えていると思うようになったので、今日の話を始めるにあたってまず紹介させていただきました。ところが、この急所はいとも簡単に外してしまい、すぐに与薬やその管理、アセスメント(評価)ツールやQOLの点数づけにばかり気を取られてしまいます。これらも大切なことは確かで、実際、その一部についてもこれからお話しするつもりですが、キルケゴールのこの言葉には、ホスピス・スペシャリスト緩和ケア(HSPC:Hospice and Specialist Palliative Care)における看護の基礎を成す重要な点が、はっきりと示されています。それは、ケアという営みであり、理解するという力であり、専門的な言葉を使えば、相手の身になって考えられる心づかいです。
 これは、看護婦の基本的な役割であると思っていますが、他の専門職の役割を拒否するものではありません。医師、ソーシャルワーカー、チャプレン(施設付きの司祭)といった、複数の専門職から成るチームなら、患者さんが置かれている困難な状況を深く気遣うことができますし、患者さんの身になって理解する心づかいを働かせることもできます。
 しかし、看護とこれらの不可欠な専門職の違いは、それらの仕事の特質と、どこで行なわれるかといったところにあります。
 看護という言葉は、「育み伸ばす」という言葉から来ていますが、私は、専門職としての看護には、このたったひとつの定義では納まりきらないたくさんのことがあることを、まず認めることだろうと思います。といっても、緩和ケアの看護においては、「育み伸ばすこと」が、目立った要素のひとつであることを否定することができません。
 他の専門職は、看護ほど患者さんのそばにいる時間が長くはありませんし、看護婦のように患者さんに毎日心をこめて接するような仕事をするわけではありません。緩和ケアチームの他のどのメンバーも、患者さんに対しては、夜な夜な眠れない患者と一緒に座ったり、お茶を入れたり、手を握ったり、夜の静寂をともにしたりすることはしません。それに対して、看護婦は、毎日毎日患者さんとご家族が悩み苦しむのを目のあたりにしているのです。
 病状が進んだ患者さんのことを考えてみてください。ホスピスでは、看護婦は、患者さんを入浴させたり食べさせたり着物を着せたりしますが、患者さんにしてみればそのようなことは母親にしてもらって以来のことです。このことは、看護婦であることの特権の一部です。それによって、私たち看護婦は、患者さんの世界を独自の仕方で見られるようになり、関係を築き、患者さんと看護婦の双方にとって看護の効果を高められるようになるのです。
 私は、実際の看護において、多くの患者さんときずなを深め、長い時間を過ごしてきました。その一方で、きずながそれほど深まらなかった患者さんについても、いつもと変わらない看護を行なってきましたが、それでもきずながあることに変わりありません。ここにおられる看護婦さんも私も、資格を持った看護婦(英国の場合は、SRN=国家公認看護婦)さんも、そうでない看護婦(SEN=国家登録看護婦)さんも、雇用されている方も、ボランティアの看護婦さんも、患者さんを入浴させながら、考えや、希望、夢、心配を打ち明けてくれるようになった患者さんに起きていることに注意を払うことでしょう。それは、風呂場のドアが閉まり、服を脱ぎ始めると同時であるように思われます。こうして隠し事がなくなっていきます。私は、患者さんの心の奥に潜む、自分自身や愛する人への望みや恐れを語りだす光景を目のあたりにしてきました。表面では事態を乗り越えたり拒否したりしてきた患者さんが、おずおずと、快く、私に心を開くのです。これも看護に与えられた、とりわけ、緩和ケアにおける看護に与えられた、特権の一部であると言えます。
 私たちには誰にも、個人として非常に大事な体験談があります。自分の経験が、大なり小なり他の人の経験よりも、もっともなものだとして、くどくど述べるつもりはありませんが、私の言いたいことをわかっていただくためにひとつだけ述べさせていただきたいと思います。

アンの物語
 数年前のことですが、セントオズワルドホスピスに、アンという患者さんがいました。アンは、婦人科の悪性腫瘍と診断されてから、あちこちの病院に行き、たくさんの手術と治療に耐えぬいてきました。治療の多くは、アンにも家族にも不快で、同時に、痛みを伴い、つらいものでした。アンは、他の入院患者さんよりも比較的元気でしたが、それまでの治療が原因で、身体的にも感情面でも問題を抱えていました。アンは、私よりもずっと年配で、成人したご家族がおられました。私たちには共通のことはほとんどありませんでした。私は、緩和ケアの分野を選び一人前になっていましたが、まだ若く、結婚しておりましたが子どもはなく、健康でした。アンは私より20歳も年配で、成人した子どもたちがおりましたが、健康ではありませんでした。つまり、私たちの人生は、まったく違ったものだったのです。しかし、私たちは、うまくやっていけました。アンは、娘ほどの年齢の者にケアされることを、ずいぶん前から気にしなくなっていましたが、毎日のことを援助してもらわざるをえない状態になっていました。私たちは、毎日関わるという関係でしたが、大した問題もありませんでした。私は、アンのことが大好きで、アンの毎日の生き方に感心していました。アンの方は、私のことを、ケアを行なう病棟看護婦の一人と見ているのだと思っています。
 この事態を進展させることが、私が夜勤のときに起こりました。前にも言いましたように、夜間は、多くの人々にとってつらいこともあります。病棟は、静まり返っていて気散らしになるものがほとんどありません。眠れない人にとっては、夜は長いのです。ある晩のこと、病棟は非常に静かでしたが、アンは、起きていました。そうしたことがよくありました。アンは、車椅子に乗って喫煙室に行こうとするところでした。私は、アンに紅茶を入れて、そばにいましょうと言いました。アンは喜び、私たちは座って、お天気のことや、休日にどうするかや、アンが帰宅するつもりだということをおしゃべりしました。
 時が経つにつれて、私たちは、家族について、アンの子どもたちに望んでいることや、彼女自身の希望について、突っ込んだ話をするようになりました。私は、アンが、家族とりわけ夫のポールと非常に親密であることがわかりました。アンは、ポールがこの数年間どれほど支えてくれたか、一緒に生きようとしてくれたか、小さい幸せをこの上もなく大切にしようとしていたかを、私に話してくれました。アンは、がんと診断されてからの歩みを私に物語り始めました。それは非常につらい経験だったと話してくれました。
 アンは、私に共感も同情も求めてはいませんでしたが、私は、アンの目線で、がんを見ることができました。それは、私が日常行なっている医学の目線でも、私たちがよく話題にする患者さんの目線とも違い、アンの目線、ひとりの妻であり母である目線で見ることができました。アンはまた、夫のポールと共にした関係について、また、こうした関係が、どれほど、このつらい日々に立ち向かえる力となったかについても話してくれました。かつては充実していた性生活が、がんの治療によりどれほどメチャメチャなものになってしまったか、疼痛緩和処置が行なわれた後から、とつぜん性交渉で快感が得られなくなった状態についてまでも話してくれました。みなさんにお伝えできない個人的な経験について突っ込んだ話をアンがしてくれたときに、私が何を言ったのかとお思いでしょうが、私は、人生の深遠に触れる、意味ありげなことなど言えるはずもありませんでした。このような時に言うべき言葉がなかったのです。私は、ほとんど聞き役にまわっていました。
 やがてアンに疲れの色が見え始めたので、ベッドに連れていき、寝てもらいました。私は仕事に戻りましたが、感情が高ぶっていました。アンのつらい状況に悲しくなりましたし、アンが苦労しなければならなかった事態に怒りが込み上げてくると同時に、アンがこうした事態を見事にしのいだことに敬服しました。
 翌朝、私が勤務明けで家に帰ろうとしていたときに、廊下で車椅子に乗ったアンとすれ違いました。アンは私を見上げながら「あなたと会えてよかった」と言ってくれました。昨日夜をともにしてくれたことに、ありがとうを言いたかったとも言ってくれました。しかし、私は、アンが感謝してくれる理由が本当にはわからず、お決まりのやり方で「いえいえ、私が好きでやったことですから」などとあいさつをしました。
 すると、アンは私の手を取り、微笑みながら「そんなことないのよ。ずいぶんとたくさんのことが話せたわ。ポールはさておき、私は誰とも話をしたことがなかったの。私の話を聞いてくれてありがとう」と言って、去っていきました。
 話を聞かせていただいても、私が適任とは思えませんでした。実際それは、私個人には何の関係もないことです。しかし、このエピソードが教えてくれていることは、看護婦が持っている役割です。この話から、看護婦に得意なことがよくわかります。それは、薬を飲ませたり着替えをさせたりといった、毎日やらなければならない仕事ではありません。キルケゴールが言ったように、「その人が何をわかっているかを理解する」という営みです。

疼痛および症状コントロールにおける看護婦の役割
 アンの物語はこれくらいにして、あらゆることが看護婦の役割であることを指摘しておいて、疼痛と症状コントロールという特定の領域に焦点を絞って話を進めていこうと思います。ただ、特定の症状に対処する場合にも、患者さんを全体として知ることがいかに大切かということも、みなさんにわかっていただきたいと思います。
 私は、主に、疼痛、排便障害、呼吸困難といった3つの症状を検討するつもりです。私は、これらの症状コントロールにおいて看護婦が果たすべき役割があるだろうと思っていますが、それは、アセスメント(評価)、ケアプランづくり、与薬管理、言葉と言葉以外の手段で伝え合うこと、患者の擁護(アドボカシー)すなわち患者さんの側に立って考え行動すること、再アセスメント(再評価)といったことに要約できます。

患者さんをアセスメントする(見極めるあるいは評価する)
 患者さんのアセスメントがしっかり行なわれなければ、対処のためのプランも立てられません。アセスメントには、人の言葉に耳を傾けられる能力をしっかりと身につけることが必要です。私たちは、患者さんに、これまでどんなことが起こったか、現在何が起きているか、詳しい病歴・生活歴をとる必要があります。しっかりした文書にすることも必ず行なわなければなりません。看護記録の枠組みがしっかりしていれば、専門職の注意を促して全ての領域を扱うことができますし、明解な看護記録を作っておけば、現在のそして将来の入院や診察のための貴重な情報源にもなります。
 痛みというものは、感情と身体が複雑に絡み合った経験なので、私たち看護婦は、痛みを説明しようとする患者さんの言葉にしっかりと耳を傾ける必要があります。研究によれば、がんの患者さんは、平均して4つの痛みに苦しむということです。痛みのアセスメントがしっかりと行なわれるには、それぞれの痛みを特定しなりません。痛みは、それぞれに異なった性質を持っているかもしれませんし、対処するにも異なったプランが必要になるかもしれません。痛みを悪化させているもの、深い呼吸やせきや動作の原因を知る必要があります。私たちは、痛みや、熱、与薬、動きのなさに有効なものは何かについても知る必要があります。
 排便障害は、つらくて難しい健康状態です。患者さんは、障害の結果として、疝痛、便秘、吐気、嘔吐、腹部の膨満といった多くの症状に苦しむかもしれません。こうして、吐気と嘔吐の傾向について、前回の排便はいつだったか、疝痛が改善した原因などについて、もう一度アセスメント(評価)する必要が出てきます。
 呼吸困難は、ときに、患者さんにとっていちばんつらい状態になります。患者さんは、息が詰まりそうだとか、窒息しそうだとか、苦しくて死にそうだとかという感じを、よく訴えます。こうして、呼吸困難でない場合には、患者さんは(そもそも)どのくらいの距離を歩けるかとか、仰向けに寝られるか、呼吸を困難にする原因は何かといったことについて、もう一度アセスメント(チェック)してこの問題を理解する必要があります。
 こうしたアセスメント(チェック)は全て、看護スタッフが行なうことができます。セントオズワルドでは、私たちは、患者さんが入院する際には、看護婦1人と医師1人が立ち会って基本的なアセスメントを行なうことにしています。それは、ある面で、看護婦と医師が、患者さんをもっとよく理解するのに役に立つからであり、また看護婦と医師が力をあわせたケアプランづくりがスムースに運ぶからでもあります。これができないということになると、看護婦と医師は、今後のケアについてプランを立てる際には協同して行なうにしても、その前の段階のアセスメントは、別々に行なうということになってしまいます。

ケアプランをつくる
 セントオズワルドではケアプランは、患者さん毎に作ります。そこでは、主要な健康問題を明らかにし、ゴールを設定し、対処すべき行動を明らかにし、いつ再アセスメント(評価)するかを設定します。ゴールの全ては数字で表わすことができるものでないといけませんし、達成可能なものでなければなりません。衰弱した患者さんの場合には、こうしたことは、難しい場合が多いものです。私の経験では、看護婦は訓練されていることもあり、医師よりも簡単にゴールを設定できることが多いようです。
 また、セントオズワルドでは、一般に、医師と話し合って看護スタッフの誰かがケアプランを仕上げることになっています。ゴールの設定のいい例は、痛みに関するものです。最初に立てる「痛みがない」というゴールは、漠然としていて、少なくともすぐには達成できない可能性があります。そこで、もっと達成できそうなゴールとして、睡眠時に痛みがないというゴールを設定します。こうしておいて、数日して再アセスメントを行ない、睡眠時および動作時に痛みがないというゴールに変更します。
 対処行動は多種多様で、健康問題の性質から、複数の専門職が関わるものになります。それには、普通は医師が決めることになっている薬の処方も入ります。呼吸困難になっている患者さんが楽になるよう体位を変えるという対処や、扇風機を使うとか窓を開けて息苦しさを軽減したり、便秘には浣腸を使うなどは、看護スタッフや療法士が決めます。
 プランは全て、普通、定期的に見直します。ゴールや対処が適切かどうかを確認したり、新しいゴールや対処を設定したり、対処を行なって問題を取り除き、いつ見直すかそのスケジュールを新たに設定したりします。

与薬管理
 英国では現在、投与する薬は、医師が処方します。看護婦による処方を促進する計画もあり、今後数年間にさらに進むかもしれませんが、これには、かなりの時間がかかるでしょう。
 ただ、与薬の管理は看護婦の役割で、ここでも看護婦のアセスメント能力が使われます。痛みのある患者さんは、苦痛をスタッフに言わないことがよくあります。平然としている態度をとるとか、喜ばせたいとか、不平がある態度を見せたくないといったことから、そうするようです。看護婦は、与薬管理で、患者さんが言葉で言う以外の合図をつかまえる恰好の位置にいますが、それで万事うまくいくわけではありません。苦痛に眉間にしわを寄せたり、身体を動かせなかったり、気分が低調であったり、呼吸が浅かったりするということはどれも、痛みのあることを示す合図である可能性があります。いつもより余分な鎮痛剤が欲しいという患者さんからのリクエストを待たずに与薬しながら、痛みや不快なことがないかを患者さんに定期的に尋ねるという簡単なやり方で、患者さんが長い時間、痛みに苦しまないようにすることができます。
 看護婦はまた、患者さんが与薬におびえているのに医師に話せない場合にも、そうした状況を見つけることができますし、時間をかけて話し合い、おびえを静めることもできます。看護婦は、吐き気を催している患者さんが、経口剤を飲み込もうとして苦労しているのを見つけたら、医師に掛け合って、錠剤をシロップにするとか、他の与薬経路を使うとか、さらにスプレーを使って呼吸困難を軽減するとかして、経口投与の機会を減らせます。

患者の側に立つこと(擁護,アドボカシー)
 患者の擁護は、このところよく議論される話題です。看護婦は、患者さんの擁護者として振舞うように奨励されています。擁護の定義とは、「〜の有利になるように弁護する」とか「議論で支える」です。私は、個人的には、看護婦を、患者の擁護者として考えたくはありません。私の意見では、「擁護」という言葉には、看護婦が患者さんの保護者であるという意味合いが含まれています。
 実際、看護婦は、他のチームメンバーから、とりわけ医療スタッフから患者さんを保護しています。過去には、医療スタッフが患者さんを保護することもありましたが、こうなると、患者さんが実際に保護してもらいたいのが、看護婦、療法士、チャプレン(司祭)をはじめ保健医療専門職であることを無視することになります。患者さんは、自分自身が擁護者であり、またそうなるべきです。もしも患者さんが、自分自身を擁護できない状態であれば、緊急に対処せざるをえないコミュニケーションは行き詰まってしまいます。もしも、患者さんが、なんらかの方法で、頭脳の働きあるいは身体の状態によって、自分自身を擁護できないならば、普通は、家族の誰かが、意思決定の責任をとります。
 そうはいっても、まれに、患者さんが、自分自身も家族のいずれも親友も擁護者になれない場合がありますが、そのときは、いずれかの専門職がなるというよりも、臨床チームの全体が、患者さんのケアにおいて擁護者の役を務めてほしいと、私は思っています。

再アセスメント(再評価)
 再アセスメントは、どうしても必要です。この世で最善の対処プランも、処方された対処が有効だったか、ゴールは達成されたかどうかを確かめなければ、何にもなりません。ケアプランには、再アセスメントの日程を正式に組み込みます。それは、たとえば、褥瘡のように急速に変化する健康問題でなければ、毎日あるいは、2、3日おき、1週間単位というようになるでしょう。しかし、看護婦は、分刻みで、1時間刻みで、絶えずアセスメント(評価)と再アセスメント(再評価)を行なっています。
 ここでも、しっかりしたコミュニケーション能力、言葉以外のコミュニケーションに気がつく能力、患者さんを理解する力、患者さんの身になって考えられる心づかいでもって、患者さんのことを絶えず繰り返しアセスメントする(確認する)のが、看護婦の長所です。看護婦は、衰弱し始めている患者さん、痛みのある患者さん、不安が増大している患者さんを見つけるでしょうし、他の専門職に、対処を行なうよう警告するでしょう。療法士にはリラクゼーションを行なうように要求するでしょうし、ソーシャルワーカーを呼んできて、患者さんの退院計画に不安を抱いている家族に、一緒にアドバイスすることでしょう。

患者さんを見極めるには
 こうすることによって、私たちはどうなるのでしょうか。何よりもまず、耳を傾け、観察し、理解し、ケアすることです。
 チームのメンバーにしっかりと報告して、チーム全体の力を借りるのです。理学療法士の経験を、呼吸困難になっている患者さんに役立て、ソーシャルワーカーのカウンセリング技能や、チャプレン(司祭)が行なえるスピリチュアルな面のサポートを活用するのです。
 全てのことがらに応えられる専門職など、おりません。これができるというのは、おごりというものです。 教えられることがらはたくさんありますし、教わる人もたくさんおります。みなさんの周囲にいる人の能力や技能を借りるのです。
 患者さんのことを見極める最良の道具、すなわちアセスメント(評価)ツールは、私の経験では、病棟スタッフの眼と耳です。それが、患者さんの身になって考えられる度合いと結び付けば、正確な症状アセスメントがしっかりと行なえます。
 そうは言っても、これで十分とはならない患者さんがいることも事実です。おそらく、こうした患者さんとは十分な信頼関係を持てていないのでしょうし、チームにとっては不慣れの人で、正確な症状アセスメントも難しいのでしょう。中には、ひどく平静な患者さんもおりますし、症状がどれほどよくないかを言ってくれない患者さんもおります。これには、患者さんの性格だとか、スタッフをあわてさせたりがっかりさせたりしたくないとか、弱い人間に見られたくないとか、薬を投与されるのが恐いとか、いろいろな理由があるでしょう。
 こうした場合には、優秀なアセスメント(評価)ツールが、非常に貴重なものになることがあります。再び私の意見を申し上げれば、ツールはできるだけシンプルなものだと、往々にしてよい結果が出せるのです。患者さんに痛みや吐気がどれほどひどいかをアセスメントする場合には、1から10までのスコアをつけると非常によく分かります。10というのは、想像できる痛みの中で最悪なのですが、10のうち8とか9になってびっくりしたことがよくありました。
 痛み計測計やビジュアル・アナログ・スケール(VAS)で患者さんの痛みや症状をマークするようお願いしても、うまくいかないことが多いのです。患者さんが、ペンを持ったりペーパーを見たりするのに苦労したり、症状を表わすマークというものがよくわからなくて、スタッフにどう思うかと質問する傾向がありますし、以前のスコアを見たり、それをそのまま引き写したりしています。
 これまでに選んだアセスメントツールで、患者さんが理解していることがわかり、それを使っていくつもりになったら定期的に使うことです。疼痛は、1日2回アセスメントする必要があります。疼痛がコントロールされているうちは、それほど頻繁にアセスメントすることはありません。嘔吐の傾向を明らかにするために、症状が発現したらその都度記録をとっておきます。排便障害の頻度も、糞便の量と特徴とともに記録にしておくと、便秘や排便障害などの診断に役に立ちます。

看護の新しい試練
 それでは、患者さんへの対処に話題を変えたいと思います。これには、与薬の形式や、着替え、栄養、その他のケアがありますが、問うことは、私たちが何をいつどうして行なうかという簡単なものです。
 悲しいことに、全体および特定の緩和ケアとしての看護と医療においては、私たちは、はっきりした答えを持っていません。私たちが行なっていることの多くは、(確かであるかもしれませんが)不確かでもあり得る体験に基づいて行なわれています。「いつもそのように行なっているから」という理由で、私たちは、手技を行なう傾向があります。患者さんが何を考えているのか聞く人などまずおりませんでした。擁護と言ってもこんな程度のものなのです。これまで疑問など出されたことは皆無であったとして、最悪の場合、看護は、毎日の習慣に逃げ込むこともありえます。
 しかし、こうした状況は変わってきています。緩和ケアの内部で行なわれている調査・研究(リサーチ)の水準は上がってはおりませんし、研究が提起する問題点は、大きなものになっておりませんが、英国では、比較的最近のことですが、政府が、説明能力(アカウンタビリティ)の新しい枠組みを推進しております。これは、「臨床現場における統治(あるいは管理)(クリニカル・ガバナンス)」と言われるものです。また、看護職の新しい仕事の指針に、「根拠(エビデンス)に基づいた看護(EBN)」という言葉があります。
 臨床における自己監査(クリニカル・オーディット)は、臨床の人間が必ず行なわなければならないことになろうとしていますが、まずは医療スタッフから、続いて看護にも、求められることになるでしょう。
 こうしたことが求められてきているにもかかわらず、これらの新事態は、私たち自身の看護に無関係なものとして、まだまだ簡単に片付けられてしまっています。調査・研究は、これまでずっと医療の領分になってきましたが、本当に私たちは、どうしたらいいのでしょうか。ある日、英国の場合なら、じきに、態度が変わって、「それで、あなたのしていることは何ですか。どんな具合ですか。他の人よりうまくいった原因は何ですか」と言うことでしょう。
 英国では、私たちは、自分たちの真価を立証できなければなりませんし、私たちの存在意義を納得させなければなりません。緩和ケアは高価で、労働集約型であり、国家(NHS)からの給付であれ、慈善団体からの寄付であれ、私たちのセントオズワルドのようにその混合であれ、私たちは、自分たちが行なったことを説明できなければならない時代に生きています。アカウンタビリティの時代なのです。私たちは、政府に対しては、給付金を賢く使っていると説明できなければなりませんし、一般の人たちに対しては、苦労して稼いだお金を、効果の上がらない、高価なケアに浪費しているのではないということを説明できなければなりません。
 私たちは、自分たちが行なっていることの多くが役立っていることを、誰もが知っています。私たちは、ケアと対処の成果を目のあたりにしています。患者さんは、自分と家族にどんな効果があるのかと聞きます。そこで、私たちが立証しなければならないのは、成果だけです。単純であろうとなかろうと、これが、私たちが行なわなければならないことです。そうすることで、私たちは、外科のように、もっと目に見える形で、評価できる専門分野で働いている仲間から信頼されるようになるのです。

研究と自己監査(オーディット)
 そこで、私たちがまさに始めようとしているのは、巨大な山を目の前にしてこれから登ろうというようなものですが、旅はどんなものでも、小さな一歩から始まります。
 私たちは、研究が持っている役割を理解する必要があります。研究は、私たちに、行なうべきは対処であることを教えてくれます。あなたは、将来の自己教育の一環である勉強のために、研究に関わるかもしれません。あなたの所属する病棟あるいは施設は、地元の、全国規模の、国際規模の研究に参加しているかもしれません。研究すべきこと、理解すべきことはたくさんあります。あなたは状況を把握する必要があるでしょうし、幅広い読書や、同僚と機関誌の論文についてディスカッションする必要があるでしょう。図書館やインターネットを使い、会議にも出席するでしょう。現在進行中の研究の中には、患者さんに対するケアの方法を変えるものが出てくるかもしれません。とはいえ、研究が好きな人たちとそうでない人たちがいるのも事実です。研究がいくら重要なものであったとしても、誰もが研究を始める余裕を持っているわけではありませんし、始めたいと思っているわけではありません。
 私たちの誰もが、自分たちが行なっている看護をよりよいものする役割を果たしたり自分たちが行なっている看護を根拠(エビデンス)に基づいたものにしたりすることができるのは、臨床における自己監査を行なうことによって、です。自己監査は、私たちが、研究により明らかにされてきた最善の看護がどれほど効果的に行わなれているかを測定・評価する方法です。
 そうだとすると、これは、不可能な仕事に思われかねません。どこから始めるか? 何をすべきか? 考えただけでも気が遠くなって、まったく始められなくなることは、火を見るより明らかです。始まりも終わりもないといった、こんがらがった糸のかたまりを思い浮かべてみてください。どこからほぐしていったらよいかわからずに、放り投げてしまうでしょう。そこで、はさみをもってきて、ほぐれた糸をつまんで切断します。そこから始めるのです。そこが始点です。

自己監査にとっての重要なポイント
 ここでまた私の経験を申し上げますと、最初は、みなさんと同僚の何人かが関心のある領域を選んで、小規模でスタートしてもらいたいものです。小規模な複数の専門職あるい単一の専門職の作業グループが興味を持てるものでスタートします。
 みなさんが行なっていることについて、上級の管理職の支援を得ることです。そして、多くの人が興味を持っているもので、小さな領域の仕事を選ぶことです。監査にどれだけ要するか、実際に、少なくとももう一度、半分の時間がかかると思っておくことです。準備に膨大な仕事が必要になる領域や、褥瘡のように考えられる治療について議論する必要のある仕事の領域を選ばないことです。計測や評価が可能で、管理が可能なものを選ぶのです。
 症状は、スタート時には至極簡単であることが多いものです。吐気と嘔吐、痛み、便秘は、どれも計測可能で、これらはどれもが、短期間に達成可能な領域ですし、きわめて医学的、それも専門的なもので、私は、これらの領域における看護の役割について要点を述べました。チームの誰もが、私たちがどれほど上手に行なえたかを明らかにすることは、興味深いことです。
 みなさんが挙げた効果を監査するために、パカ(PaCA、緩和ケアアセスメント)のような単純なアセスメントツールや、その他のQOLスコアを使うことを検討してください。みなさんを疑う人たちに、自らの価値を証明することです。やがて、みなさんが経験を積むにしたがって、監査の領域を広げ、さほど明確に定義されていない領域のテーマについても考えるようにするのです。自分が挙げた成果を誇りに思い、スタッフに、自己監査によって何が見つかったか、また、その成果をどのように使って、対処の仕方を修正し再検討したかを語り伝えるのです。このことが、前進の方法であり、問いを投げかけ、挑戦し、学び、患者さんとご家族に結果を出すことなのです。

 最後になりましたが、私は、みなさんに思考の材料を提供できましたでしょうか。また、看護の独自性について考えていただけましたでしょうか。それから、緩和ケアの医療と看護が21世紀に突入するに際して、私たちが直面している問題や、私たち看護婦の役割を指摘できたでしょうか。看護婦は、他の職種とは異なったことができる重要な存在であり、胸おどる未来があります。
 ご静聴ありがとうございました。

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